『風の谷のナウシカ』 宮崎駿 その2 (書評・近藤慎太郎)

宮崎駿のマンガ版『風の谷のナウシカ』は、後世に残る傑作です。

 

 

なぜ人は環境を破壊しながらも戦争をやめられないのか?

不幸の連鎖は断ち切れるのか?

環境は人の敵なのか?味方なのか?

人は安寧を求めればそれでいいのか?

いかに生きるべきなのか?

 

重層的に提示されるテーマはいずれもまさに哲学的です。

 

そして特筆しておきたいのは、その構成力です。

すべてのエピソードがしかるべく収束されていき、最後のクライマックスを迎えます。

哲学的で複雑な内容なので、趣旨が変化したり、結論が出にくかったりする場合もあると思いますが、連載が長期にわたっておきながら、過不足なく首尾一貫した内容にまとめ上げる剛腕ぶりには脱帽です。

すべての構成を見通してから連載が始まったとは思えませんし、よほど確固たる信念がなければこれは不可能でしょう。

 

いわゆる「友情・努力・勝利」的な日本のマンガの王道的アプローチとは無縁なので、マンガを読んでカタルシスを得たいという方にはもしかしたら不向きなのかもしれません。どちらかと言えば、時間をとってじっくりと対峙するという作品です。私は読みながら、本作品の立ち位置が、フランスのマンガである『B.D.(バンド・デシネ)』に近いなと感じました。

 

日本のマンガ市場においては、当然日本の作品が量・バラエティともにダントツの存在であって、あとはせいぜい『バットマン』などのアメコミがごく少数認められる程度です。しかし日本にあまり紹介されていないだけであって、実はフランスも有数のマンガ大国なのです。宮崎駿や、『アキラ』の大友克洋にも影響を与えた巨匠メビウスなどが代表的存在です。

  

L'INCAL アンカル (ShoPro Books)

L'INCAL アンカル (ShoPro Books)

 

 

ジブリの映画は、シンプルで優しい素朴な線で描かれているイメージが強いのですが、『風の谷のナウシカ』の絵はとにかく緻密に描き込まれており、メビウスからの影響を色濃く感じます。

そしてメビウスの作品も含めて『B.D.(バンド・デシネ)』は、単純なエンターテイメントというよりも、複雑で哲学的な内容であることが多いのです。日本のように数百円で買えるようなコミックスではなく、それこそ『風の谷のナウシカ』のように大型のもので、製本もかなりしっかりしており、美術書や文芸書と一緒に並んでいることが多いようです。

風の谷のナウシカ』との共通点は多く、宮崎駿の念頭に『B.D.(バンド・デシネ)』があったことは間違いないと思います。

 

ただし、だからと言って過剰に身構える必要はありません。

本作品はエンターテイメントとしてもきちんと成立しています。

様々な愛すべきキャラクター、

物語の推進力となる謎とその解明、

緻密な描写、

乗り物や建物のデザインに至るまで、実に魅力的です。

 

天才が持てる限りの情熱を傾けて、最大限の努力をしながら長い時間をかけて作り上げたものが本作品なのです。もう手のつけようがありません。

 

私は大学生の時に本作品を読んで深い感銘を受け、今回20年ぶりぐらいに再読しました。

20年のうちに溜まった皮肉で小賢しい物の見方が、過去に私が受けた感銘を矮小化したり損なったりしてしまうのではないかとちょっと恐れていたのですが、そんなことはまったくの杞憂でした。同じようにノックアウトされましたし、むしろちょっとしたセリフの説得力や構成の妙など、再読によって得た細かい発見も多く、理解が深まったような嬉しい気持ちすらありました。

 

最終巻、長い旅路の果てにナウシカ腐海や人間の秘密にたどり着き、とある勢力と対峙することになります。

彼らの主張にも一分の理があります。ナウシカはどのような選択をするのでしょうか?ぜひみなさんの目で確かめてください。

 

 

さて最後に、宮崎駿にはこんな作品もあります。

チベットの民話をベースに、絵物語風にオールカラーで描かれています。

  

シュナの旅 (アニメージュ文庫 (B‐001))

シュナの旅 (アニメージュ文庫 (B‐001))

 

  

この作品もあまり知られていないと思いますが、『ナウシカ』や『天空の城ラピュタ』の世界観を一部共有しており、大変興味深く読めます。宮崎駿ファンの方は、こちらもどうぞ。

『風の谷のナウシカ』 宮崎駿 (書評・近藤慎太郎)

よく、「努力に勝る天才(才能)はない」という趣旨の文章を目にします。

確かに自分の才能にあぐらをかいて努力を怠ってしまい、コツコツ頑張ってきた人に抜かされてしまう人がいるのも事実です。

しかしその一方で、溢れんばかりの才能があって、さらに最大限の努力までしている人も世の中にはいます。そういう人は当然その分野で突出した活躍をしており、この辺が限界点なのかなという領域を突き破り、私たちが認識できる世の中の枠組みを少し拡げてくれたりします。

日本人で言えば、イチロー宇多田ヒカル、そして今回取り上げる宮崎駿などがその代表だと思います。

 

宮崎駿は『ルパン三世カリオストロの城』、『風の谷のナウシカ』、『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』、『千と千尋の神隠し』など、世界的にも有名なアニメーション映画を多数製作しています。

その他にもTVシリーズとして、『アルプスの少女ハイジ』、『未来少年コナン』などを手掛けています。また、ルパン三世のセカンドシリーズの最終話『さらば愛しきルパン』は宮崎駿が別名義で製作しているのですが、この話は30分番組とは思えないほど濃密で完成度が高いです。クラリスナウシカラピュタに出てくるロボットの原形が出てくるので、興味のある方はぜひ観てください。

  

ルパン三世 second-TV.BD-(26)(Blu-ray Disc)

ルパン三世 second-TV.BD-(26)(Blu-ray Disc)

 

  

ちょっと興奮して脱線したようです。

 

さて、今あげたような宮崎駿の作品を一つも見たことがないという人は非常に稀だと思いますが、もし「宮崎駿=アニメーション」だけだと思っているとしたら、これは途轍もない大損をしています。

なぜなら、宮崎駿にはマンガ版の『風の谷のナウシカ』という、世界記憶遺産レベルの大傑作があるからです。

 

  

マンガ版の『風の谷のナウシカ』は『アニメージュ』という月刊誌で1982年から連載が始まりました。幾度も中断を挟みながら1994年、足掛け13年を掛けて完結し、全7巻の大型の単行本にまとめられています。

 

映画版の『風の谷のナウシカ』も、久石譲の素晴らしい音楽と相まって、グウの音も出ないほどの傑作ですが、分量としてはマンガ版の2巻の途中までをまとめたものにすぎません。しかも映画版単体で内容が完結するように、シンプルに再構成されています。

 

一方マンガ版では、トルメキア王国と対立する土鬼(ドルク)という勢力があり、2つの大国の覇権争いを軸にしながらストーリーが展開していきます。

そしてそこに、ナウシカに代表される小国の人々や、腐海に生きる人々の思惑、暴走する王蟲(オーム)や腐海の成り立ちの謎などが複雑に絡み合っていきます。

映画版だけでも十分素晴らしいのに、実はその先には、更に何倍も豊穣な世界が広がっているのです。

 

よく本作品は「エコロジーをテーマにしている」と解説されます。別に間違いではないでしょうが、手垢のついたその言葉だけで本作品を十全に評価することはできません。

 

なぜ人は環境を破壊しながらも戦争をやめられないのか?

不幸の連鎖は断ち切れるのか?

環境は人の敵なのか?味方なのか?

人は安寧を求めればそれでいいのか?

いかに生きるべきなのか?

 

重層的に提示されるテーマはいずれもまさに哲学的です。(つづく)

『メメント・モリ』 藤原新也 (書評・近藤慎太郎)

メメント・モリ

ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。(ウィキペディアより)

 

著者は東京芸大中退後にインドなどアジア各地を長期間放浪し、写真と文章が渾然一体となった作品を生み出し続けてきました。

 

本作品は代表作の一つであって、旧編から新編への移行はありましたが、1983年の刊行からずっと読み継がれてきたロングセラーです。

ガンジス河のほとりで、沖縄の名もない場所で、生と死が交錯する一瞬を切り取った写真に短い文章が添えられています。

 

メメント・モリ

メメント・モリ

 

 

収められている写真はとても「雄弁」です。ガンジス河に放置される遺体、荼毘にふされる遺体、犬に喰われる遺体…。「死」がそのままの形で提示されています。

しかもそれらは決して特別なものではなく、その場所においてはありふれた、あくまで日常の延長として捉えられています。

さらには娼婦の写真からも、咲き誇る花の写真からも、やはり日常にひそむ死の予兆を感じます。

 

作者の意図は序文に込められています。

 

「いのち、が見えない。(中略)死ぬことも見えない。いつどこでだれがなぜどのように死んだのか、そして、生や死の本来の姿はなにか。今のあべこべ社会は、生も死もそれが本物であればあるだけ、人々の目の前から連れ去られ、消える。」

 

そして、中程にはこんなメッセージが。

 

「死とは、死を賭して周りの者を導く、人生最後の授業。」

 

確かに現代人にとって、死は最大のタブーとして厳重に秘匿されています。

死は畳の上で家族に見守られて…ではなく、病院の個室で人目を避けて迎えるものになっているのです。

 

死とはどういうことか、死ぬ時人間はどうなるのか、誰も教えてはくれないし、巧妙に隠されている以上、考えるきっかけもほとんどありません。受け皿になるべき宗教観も曖昧です。

 

もちろん死は誰にとっても畏怖の対象であるので、日々の生活からできるだけ遠ざけておきたいというのは自然な心理です。

でもそこで目を逸らし続けて、気を紛らわせるためのコンテンツで溢れる清潔な世界を作ったとしても、それが結局のところ虚構でしかないと感じる瞬間がいつか来るのかもしれません。

著者はそんな現代人にメッセージを投げ続けます。

 

メメント・モリ、死を想え」と。

 

なぜなら生と死は一続きのものだから。

そこがゴールなのだから。

そのために生が輝くのだから。

 

「死を想う」。

突き詰めて言えば、これが現代に生きる私たちにとって一番大事なキーなのではないでしょうか。

これは決してネガティブなことではありません。人生を彩らせるために、死という最下点から立脚した、実はもっともポジティブな人生訓なのだと私は思います。

『「死への準備」日記』 千葉敦子 (書評・近藤慎太郎)

著者はフリーランスのジャーナリスト、ノンフィクション作家です。

日本とアメリカを舞台に様々なメディアに政治・経済のレポートを寄稿する一方、乳がんを患らってから亡くなるまでの6年以上、その治療と経過、自分の考えや感情の推移を克明に記録して1990年前後に何冊か本を出版しました。

 

著者の作品としては、『よく死ぬことは、よく生きることだ』の方が知られているかもしれませんが、

よく死ぬことは、よく生きることだ (文春文庫)

よく死ぬことは、よく生きることだ (文春文庫)

 

 

齟齬が生じないよう丁寧にまとめ上げられたものよりも、日記の方が著者の考えや感情がより自然に近い形で反映されるのではないかと思い、こちらを選びました。 

「死への準備」日記 (文春文庫)

「死への準備」日記 (文春文庫)

 

 

著者の名前を聞いたことがある方は、「乳がんとの壮絶な闘病生活を送り、抗がん剤の副作用に苦しんだ末に亡くなった」というイメージを持っているのではないかと思います。かくいう私もその1人だったのですが、それはむしろ日本のメディアが作り上げたイメージであって、一面事実であったとしても、本書を読んで「トータルの印象はだいぶ違うな」と思いました。

 

乳がんを患ってから、著者は単身ニューヨークに移り住みます。

そこで周囲のサポートを受けつつ、進行していく乳がんとの闘いを始めます。

しかしその闘病生活にしても、現代医学を盲信して突き進んだわけではありません。

効果がないかもしれないことはきちんと主治医から説明されていて、選択に思い悩みながらも自分らしく生きるため、理性的にがんと向き合って行きます。

 

そして日々変化する体調と相談しながら、料理を作ってパーティーをしたり、コンサートに行ったり、美術館に行ったりして、残された時間を有意義に使おうと一生懸命努力します。

そのバイタリティには圧倒されます。彼女を中心に周囲がグルグル巻き込まれていくのが目に見えるようです。

 

そして本来であれば、彼女のやり方を私たちもまったく同じように踏襲しなければいけないのです。いずれ死を迎えるのは彼女も私たちも同じです。それをイメージできているかいないかの違いだけ。本当は誰しももっと1日1日を慈しみながら生きなくてはいけないのでしょう。

 

そしてそれに関連して、本書はもう一つ大切なことを教えてくれます。

 

乳がんが縦隔のリンパ節に転移し、その影響で声が出なくなってしまいます。

「声を失うことは、一つの死を死ぬことなのだと思う。こうして、一つずつ死を死んで、死の積み重ねが、最後の死へ私たちを導いていくのだと思う。」と著者は言います。

これは本当にその通りだな、と思いました。

 

よく「人間は死に向かって生きている」と言われます。総論としてその通りなのですが、その表現だと漠然としていて今ひとつピンときません。

そうではなく、「生きるということは、自分の一部分が少しずつ死んでいくこと」と捉えたらどうでしょうか。

 

たとえば慢性的に腰や膝が痛いとか、老眼になって見えづらくなったといったことに始まって、病気になって後遺症が残ったというのも、自分の一部が死んだとも言えるでしょう。

そして肉体的なことに限らず、家族や親しい友人を失うということも同様です。やはり自分の大事な一部が死んだのです。

 

もちろん生きていくに従って新たに手に入れるものもあるでしょうが、大切なものでいったん自分から離れたものは、だいたい永遠に失われてしまうのです。

だからこそ、今手元にあるものを、体であっても、家族や友人であっても、永遠に続くものではないんだという思いを持って、大切に、丁寧に生きて行かなくてはいけないのでしょう。

『銀河鉄道の夜』宮沢賢治 (書評・近藤慎太郎)

みなさんの「初・宮沢賢治」はどの作品でしたか?

 

『どんぐりと山猫』?

セロ弾きのゴーシュ』?

雨ニモマケズ』?

 

どれも忘れがたい作品です。

 

私の場合は『注文の多い料理店』でした。

確か、小学校2〜3年の国語の教科書に載っていたと記憶しています。

私は決して本が好きな子供ではなかったのですが、なかったからこそか、

その目眩がするような面白さに度肝を抜かれました。

 

全編に漂う不気味さ、

どことなくトボけて個性的な表現、

違和感が少しずつ高じていき、

どんでん返しされるロジック、

意外な急展開、

そして最後のちょっとしたツイスト。

 

今読み返しても、エンターテイメントのお手本のような作品だなぁと感心します。

 

当時、急いで本屋さんに行って子供用の文庫を買ったのですが、実はその他の作品を読んで、子供心にも

「あれ、変だな。スッキリしない作品も多いぞ。」と思いました。

 

 

よく宮沢賢治の作品は、難解だと評されます。

確かにまるっきり意味も意図も分からない、オチもないという作品もあります。

注文の多い料理店』のように、最初から最後まで無駄なくキチンと完成している方が少数派かもしれません。

 

 

そして、名作の誉れ高い『銀河鉄道の夜』も、実は未完成の作品です。

 

銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫 緑76-3)

銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫 緑76-3)

 

銀河鉄道の夜

 

もうタイトルの響きからして素晴らしいですよね。

何べん繰り返しても素晴らしいまま。

イメージが奔流のように流れ込んできます。

 

有名な作品ではありますが、実際に読んだことがある方は意外と少ないのではないでしょうか?

 

銀河の祭りの夜、主人公のジョバンニと友人のカムパネルラは、ふと気がつくと銀河鉄道に乗っており、宇宙の様々な場所を旅します。

そして実はカムパネルラは…これ以上はネタバレになってしまうので、興味があればぜひご一読ください。

 

ところで描写はイマジネーション豊かで美しいといえばその通りなのですが、どうもわかりづらい。率直に言って読み進めるのが辛い場所もありました。

作者が37歳の若さで逝去したため、未定稿のまま遺されたことも影響しているのだと思います。

そして、その難解とも評される作者の特異性のヒントが賢治自身の言葉として解説に書かれています。

 

「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。(中略)わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたしくにもまた、わけがわからないのです。」

 

「えっ、そうなの!?」と思いますよね。

不思議な作家です。

たとえば夏目漱石三島由紀夫の果たした役割を、そのままではないにせよ、現代風に修正して代行する作家は出てきてもおかしくないと思いますが、宮沢賢治の代わりが出てくるとはちょっと思えない。

 

とにもかくにも独特な小宇宙を持った作品群を残してくれて、しかもそれらを現代でも気軽に読めることに感謝をして、少しずつ味わっていきたいと思います。

 

さて、本書の中で私が一番好きなセリフは、『からすの北斗七星』にあります。

カラスの大尉が山がらすとの明日の決戦に臨みます。許嫁もいるのですが、二度と会えないかもしれません。

その夜、カラスの大尉はマジエル星(北斗七星)を仰ぎ見ながら祈ります。

 

「ああ、マジエル様、あしたの戦でわたくしが勝つことがいいのか、山がらすが勝つのがいいのかそれはわたくしにはわかりません。ただあなたのお考えのとおりです。わたくしはわたくしにきまったように力いっぱいたたかいます。みんなみんなあなたのお考えのとおりです。」

 

私もそうありたいです。

『大河の一滴』五木寛之 その2 (書評・近藤慎太郎)

前回、本書には、日本人の通奏低音として流れるイメージを喚起する力があると書きました。

 

大河の一滴 (幻冬舎文庫)

大河の一滴 (幻冬舎文庫)

 

 

西洋的な善と悪の二元論を捨てて、もっと肩の力を抜く。

清濁併せ呑み、融通無碍に生きる。

あくせくせずに、大いなる自然の流れ、循環に身を任せる。

 

これは、自然界の万物に神が宿っていると考え、畏れ敬うという神道の考え方が根本にあるのかもしれません。

 

私自身も抗いがたい魅力を感じる一人ですが、こういう考え方、価値観には、固有の落とし穴もあると思います。

 

善と悪を峻別するとまではいかなくても、多くの選択肢の中から自分にとってベストのものを、自分の責任で選び取るということは、それなりに困難を伴う作業です。

 

その一方、「大いなる自然の流れ、循環に身を任せる」というのは、悪く言えば「成り行きに任せて責任を回避している」とも解釈できます。

 

辛い時にそういう考えを取り入れて、しばし気持ちをラクにするというのは人間には必須の知恵でしょうが、それが常態になってしまえば、単に困難から目を逸らして生きているだけになってしまいます。

 

また、本書で一ヶ所だけ気になる記述がありました。

その趣旨は以下の通りです。

 

「人間の体をつくっている細胞は、すべて老いていく。また、紫外線や汚染物質によって傷ついていく。そしてその周囲にそれをバックアップしようという善意のボランティアが出てくる。彼らが頑張りすぎて止まらなくなったものが癌である。

癌は悲鳴をあげながら暴走している哀れな細胞です。だれか止めてくれ、と叫びながら突っ走っている。癌はもともと善意の細胞なのだから、叩きつぶすとか放射線で焼き殺すとか闘病とか、そういう考えかたは基本的にどこかズレている。」

 

これもとてもありがちな、日本的な考え方だと思います。

万物に神が宿っているという考え方同様、自然現象を擬人化して、そこに意味を持たせてしまいがちなのかもしれません。

著者のマイルドな語り口に乗せられて気持ち良く読んでいると、特に違和感なくスッと内容を受け入れてしまう読者もたくさんいると思います。

しかし、いくらなんでもウェット過ぎるでしょう。 これも日本的な落とし穴の一つです。

 

 

私自身、日本的、神道的なものの考え方に強く共鳴する一人です。

しかし、私を含めて、それを最後まで貫き通す覚悟を持った人はそんなに多くないように思います。

大いなる流れに身を任せておきながら、いざがんができてしまったら、「こんなことは受け入れられない」とばかりに急に西洋的に白黒つけようとアタフタしてしまうのではないでしょうか。

 

ただしこれはどちらかの考え方を選択しなくてはいけない、ということではないと思います。

全体として日本的な価値観を取り入れながらも、要所要所で健康チェックなどをして、西洋的な価値観も保険として取り入れておけばいいのです。

いいとこ取りで全く構わない、と私は思います。

『大河の一滴』五木寛之 (書評・近藤慎太郎)

胃がん検診の話が一段落したので、食道がん検診の話に入る前に、気分を変えて何回か書評をしたいと思います。

ジャンルを問わずというわけにはいかないので、とりあえず『生と死をテーマにした本』という縛りを設けて、少しずつ紹介していきます。

 

さて、第1回目は1998年に出版されて大ベストセラーになった、五木寛之の『大河の一滴』です。

  

大河の一滴 (幻冬舎文庫)

大河の一滴 (幻冬舎文庫)

 

 

第1回目に選ぶほど強い感銘を受けたのかと言われると、必ずしもそうではありません。

ただ最近再読して感じたのは、出版からかれこれ20年近く経つのに、ここで著者が指摘した日本人を取り巻く諸問題が、驚くほど進歩のないままに存在し続けているという事です。

(あまつさえ複雑化して混迷度が増している)

そういった意味では、この作品は今なお新しいし、読む価値があります。

 

この作品は、書き下ろしの『人はみな大河の一滴』と、著者が雑誌やラジオで発表したエッセイをまとめたものです。

おそらく発表された時期はバラバラなのだろうと思うのですが、もともと著者の考え方が大らかで決めつけるような表現をしないので、ある程度の統一感を持って読み進める事ができます。

 

『人はみな大河の一滴』 の著者の論旨は以下の通りです。

 

「日本人は様々な閉塞感、将来に対する拭いきれない不安感に日々晒されており、自殺者の数は非常に高い値で推移している。

しかし、本来この世は地獄であって、人間の一生とは、本来苦しみと絶望の連続なのだ。

現代の日本人は、なにも期待しないで生きるという究極のマイナス思考から出発するべきなのだ。

なにも期待していないときこそ、思いがけず他人から注がれる優しさや、小さな思いやりが心に染み入るのだ。

からからにひび割れ、乾ききった大地だからこそ降りそそぐ一滴の雨水が甘露と感じられるのだ。暗黒のなかだからこそ、一点の遠い灯に心がふるえるのである。」

 

これだけであれば、テクニックや処世術の範疇に収まるかもしれませんが、著者はさらにこう考えます。

 

「自分をちっぽけな、頼りない存在と考え、もっとつつましく、目を伏せて生きるほうがいいのではないか。

海へと注ぐ大河の水の一滴が私たちの命だ。濁った水も、汚染された水も、すべての水を差別なく受け入れて海は広がる。

やがて海水は空の雲となり、ふたたび雨水となって地上に注ぐ。

高い嶺に登ることだけを夢見て、必死で駆けつづけた戦後の半世紀をふり返りながら、いま私たちはゆったりと海へくだり、また空へ還っていく人生を思い描くべきときにさしかかっているのではあるまいか。」

 

西洋的な善と悪の二元論を捨てて、もっと肩の力を抜く。

清濁併せ呑み、融通無碍に生きる。

あくせくせずに、大いなる自然の流れ、循環に身を任せる。

これは、宗教観を持っているような持っていないような日本人の奥底に、通奏低音として流れるイメージなのかもしれません。

著者の言葉が多くの人の共感を呼ぶのは、そういったイメージを喚起する力があるからなのでしょう。(つづく)