近藤慎太郎の低ハードル・ダイエット 第1回

診療を行う上で、肥満をどうコントロールするかというのは非常に重要な問題です。

肥満は、高血圧、糖尿病、脂質異常症などを起こして、脳卒中心筋梗塞の引き金になったり、がんの発症リスクを上げたりするからです。

 

外来などで肥満の相談を受けるたびに、

「痩せなきゃダメですよ」

とか

「入ってくるカロリー(食事)と出て行くカロリー(運動)の収支のバランスですよ」

とか

「まずはじめに野菜を食べるといいですよ」

とか説明しています。

 

間違ったことを言っているわけではありません。

しかし実はそれはどこかの教科書に書かれていたことであって、自分がそれを実感として持っているのかと言われると、必ずしもそうではありませんでした。

 

医者として生きていく上で、適切な食事と運動による健康管理の知識は欠かせません。

そうであるならば、自分の体を使ってダイエットをきちんと実践し、健康管理をするうえで何がどういいんだということを、確信を持って言えるようにならなければいけないと思い立ちました。

 

幸い(?)長年の多忙による運動不足と不摂生のせいで、お腹の回りは自分の人生史上、最高にタプタプしています。

もともとやせ型で、服を着るとそうは見えないのですが、健康診断のたびに「典型的な隠れ肥満ですね」と言われています。

食事と運動による効果をモニターするためには、これ以上ないぐらい理想的な状態です。

 

ただしダイエットを始めるにあたって、いくつかのルールを決めました。

 

①無理な食事制限はしない。

リンゴだけ食べるとか、炭水化物は食べないとか、そういうことは一切しません。恥ずかしながらラーメンやカレーなどが大好きなので、好きなものはきちんと食べつつも、それを補完する食事などで無理のないダイエットを目指します。

 

②無理な運動はしない。

急に頑張りすぎると長続きしませんし、体にも良くありません。多忙な方でもこれぐらいならなんとかできるという、「ハードルの低い運動」を心がけます。

 

③高価なサプリや健康食品などは使わない。

無理なく一生でも続けられるダイエットを目指すので、特定の商品に頼ったり、持続的に出費がかさんだりするようなことは一切しません。

ただし、コーヒーと紅茶、烏龍茶のどれがいいかなど、一般的なスーパーなどで買える商品はいずれ試す予定です。その場合も、原則的にごく一般的な商品を選んで、「痩せるお茶」など特定の効果を謳ったものは使用しません。

 

また、色々なことをいっぺんに試すと、減量できた場合にどれが一番効果があったのかが分からなくなってしまいます。

まず数ヶ月は、「運動」をテーマにします。

現在、週に1〜2回近所にあるスポーツクラブに行って、体感、四肢の筋トレをしています。

重さは「10回ギリギリできるぐらいを2〜3セット」と言われていますが、1セットしかやってません。(笑)

あまり時間を掛けたくないのと、あくまでも「ハードルの低い運動」を大事なテーマにしていますので…。

あとは有酸素運動を30分やっていますが、まったく自分を追い込んでいません。30分でだいたい250キロカロリー消費する程度です。

また「今日はちょっと疲れているな…」という時は20分にするなど、かなり大胆に変更しています。

あとは週1回、7歳の子どもと一緒に近所の公園を走っています。これは子どもの体力づくりがメインの目的なので、ゆっくりと2キロ前後ぐらいしか走っていません。オマケ程度です。

 

さて、現状のデータを示します。

 

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身長174cmで体重66.3キロなので決して重すぎではないと思いますが、体脂肪率が21.3なので結構あります。やせ型なのに脂肪が付いているという状態です。

これがどう変化していくか、また経過を報告します。

 

また、無理なダイエットはしないということを証明するために、食べたものを示します。

B級グルメ情報も兼ねていますので、どうぞご参照ください。(笑)

 

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大宮『煮干丸』(写真 上段・左)

煮干が香る濃厚なスープ。麺はストレートでカタメがデフォルトだが、スープがしっかりしているのでこれぐらいがちょうどいい。バッサバッサ食べる感触が心地よい。

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新橋『岡むら屋』(写真 下段・右)

いわば牛丼の亜種。濃いめのいわゆる肉どうふにタマゴ、大根が入っている。大根は「どんだけ煮込んでんだ?」というぐらいにトロットロのシミッシミで、柔らかすぎて自重に耐えられず折れている。卓上には七味とカラシが置いてあり、たっぷり10秒は悩んだ末に両方投入した。ガッツリ食べたい時にオススメ。

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(文・近藤慎太郎)

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

 

『461個の弁当は、親父と息子の男の約束。』 渡辺俊美 (書評・近藤慎太郎)

作者はバンド『TOKYO No.1 SOUL SET』のギタリストです。

また、同じ福島県出身である山口隆サンボマスター)たちと『猪苗代湖ズ』を結成し、2011年の紅白歌合戦にも出場しています。ご覧になった方も多いのではないでしょうか。

 

紅白の少し前、作者は妻と離婚したそうです。

そして中学生の一人息子の親権は作者が得て、父子の二人ぐらしが始まったのです。

 

そんな事情も影響したのかもしれませんが、息子さんは高校受験に失敗してしまいます。

しかしなんとか踏ん張って翌年再受験し、今度は無事合格しました。

 

そこで作者は頑張っている息子さんを何とか応援したいと考え、二人で相談した結果、「高校の3年間は毎日お父さんがお弁当を作る」という約束を交わしたのです。

 

その3年間を記録したものが、本書『461個の弁当は、親父と息子の男の約束。』です。

461個の弁当は、親父と息子の男の約束。

461個の弁当は、親父と息子の男の約束。

 

 

おそらく作者にも色々な思いがあったのだと思います。

母と離ればなれにさせてしまったこと。

寂しい思いをさせていること。

母親役もしなくてはいけないこと。

 

その思いがこれだけ途方もない約束(私見です)へと結実したのでしょう。

 

お子さんがいる男性のみなさんは、来る日も来る日も毎朝お弁当を作り続ける自信がありますか?

少なくとも、私はまったくありません。絶対そんな約束はしないと思います(笑)。

 

作者はもともと料理も好きだったようです。凝り性で、上達するまで同じものを何度も作り続けたりもしていたようです。

しかし、たとえ素地があったとしても相当大変だったはずです。

なにせ作者はミュージシャンで仕事は不規則で不在がち。

それでも、二日酔いの日も、早朝に帰宅した日も、休まず作り続けたそうです。

そうして作り続けたお弁当の写真がたくさん載っているのですが、手抜きをしていないことはもちろん(冷凍食品は一切使っていない)、どんどん腕前が上達していることが見て取れます。

本当に脱帽です。

 

好きなものをたくさん入れて、お弁当を開けた瞬間、息子さんを喜ばせたい。

どんな時でも箸が進むよう、美味しそうに見せたい。

そして体にいいものを食べて健康に育ってほしい。

 

そんな思いが全編からヒシヒシと伝わってきます。

 

ブロッコリーは塩ゆでしているとき、鍋にお酢を少し垂らすと、すごくきれいな緑色になって上がってきます。」43ページ

 

「色が散らばってしまったと感じたときは、真ん中にミニトマトを一つ置いてみると、なぜか全体がまとまって見えます」44ページ

 

「息子が大好きなしょうが焼き。初春はまだ寒いので、体が温まるよう、いつもより多めのしょうがを入れた。」59ページ。

 

「高知から送られてきた初がつおは、さすがに生のまま弁当に入れられないので、にんにく醤油で一晩漬けて竜田揚げにしました。」71ページ

 

実に愛に溢れた文章です。

挙げていたらキリがないほど全体にちりばめられています。

 

きっとお弁当は毎日はっきりと目にすることができて、心も体も満たすことができる、とても分かりやすい愛情表現であったんだろうと思います。

自分のことを気づかってくれている、愛してくれているということを毎日毎日確認できる。

たとえ会えない日があったとしても、お弁当が父子のコミュニケーションを介在し続けていたのでしょう。

 

それがどれだけきちんと息子さんに伝わっているかは、本書の末尾にある息子さんからのコメントで見て取れます(ここではあえて書きませんが…)。

高校を卒業したばかりの息子に、これだけ素直で親愛の情に満ちた感謝を受けられるような父親が世の中にどれほどいるのか、はなはだ疑問です。

 

こんな一文もありました。

息子さんが高校の単位の取得のために遠出をするときに、

 

「食べたらすぐ捨てられるよう、竹の皮の箱にしましたが、持って帰ってきてくれました。」39ページ

 

素晴らしい父子関係ですね。

やっぱり私もお弁当を作った方がいいのかな。(笑)

 

(文・近藤慎太郎)

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

 

『旅をする木』 星野道夫 (書評・近藤慎太郎)

旅をする木 (文春文庫)

旅をする木 (文春文庫)

 

 

著者の星野道夫は、26歳で単身アラスカに渡りました。

以後18年間そこで暮らし、人の手が入っていない過酷な自然と、そこに暮らす人々の営みを、端正な文章と雄弁な写真で描写しました。

そして1996年に、ロシアでキャンプ中にクマに襲われて亡くなっています。43歳でした。

 

ある時は白夜の中カリブーの大群を追い、

ある時は船でザトウクジラに遭遇し、

ある時はフェアバンクスの古本屋で昔の写真を眺めながら空想に浸り、

ある時は腕の良いブッシュ・パイロットの葬儀に参列し、

ある時は孤島に自然のままのトーテムポールを探しに行く。

 

本書を読んで伝わってくるのは、大いなる自然と隣り合わせで生きるということの危うさです。

大きな都市で安全に暮らしていると感覚が鈍磨してしまいますが、本書の舞台アラスカでは人間も自然の中で決して例外的な存在ではなく、時にかんたんに死へと呑み込まれていきます。

友人のパイロットたちの死もそうであるし、なにより作者自身も予期せぬ死を迎えているのです(本書の出版の後ではありますが)。

 

それがこちらに予備知識としてあるからか、読み進めながら、隣り合わせの死を予兆のように常に感じてしまいますが、なぜか陰惨なイメージは感じられません。

それはおそらく著者自身が、人間も自然のシステムの中にある無力な1ピースに過ぎないと皮膚感覚で感じており、それをむしろ肯定的に受け入れているからでないかと思います。

 

それが垣間見える、象徴的な挿話があります。

本書のタイトルにもなる、アラスカに伝わる物語です。

 

鳥についばまれたトウヒの木の種子が、アラスカの川沿いの森に根づき、大木へと成長する。

長い年月をかけてユーコン川がゆっくりと森を侵食し、トウヒの木も川へ流れ落ちていく。

海流が流木を遠いツンドラ地帯へとたどり着かせる。

木のないツンドラの世界で流木は一つのランドマークとなり、一匹のキツネが匂いをつけて自分のテリトリーとする。

そしてエスキモーは流木を薪として利用し、ストーブにくべる。

トウヒは燃え尽きるが、大気の中に混じって新たな旅が始まっていく…。

 

諦念と安息を感じさせるこの物語が著者の中に脈々と息づいているからこそ、何を見ても、何を経験しても、著者の目がキラキラと輝いていることが想像できるのです。

 

そして、巻末にある池澤夏樹氏の解説がすべてを語っています。

 

「幸福になるというのは人生の目的のはずなのに、実は幸福がどういうものか知らない人は多い。(中略)

実例をもって示す本、つまり幸福そのものを伝える本は少ない。(中略)

旅をする木』で星野が書いたのは、結局のところ、ゆく先々で一つの風景の中に立って、あるいは誰かに会って、いかによい時間、満ち足りた時間を過ごしたかという報告である。

実際のはなし、この本にはそれ以外のことは書いていない。」p237

 

もちろん、作者自身はひけらかすような書き方は一切していません。ただ事実として、作者が経験して書き記している物事が、日々の営みに追われる私たちにとって、めくるめく夢のような経験にしか思えないのです。

 

「今となると、ぼくには旅をする気が星野と重なって見える。

彼という木は春の雪解けの洪水で根を洗われて倒れたが、その幹は川から海へくだり、遠く流れて氷雪の海岸に漂着した。言ってみればぼくたちは、星野の写真にマーキングすることで広い世界の中で自分の位置を確定して安心するキツネである。

彼の体験と幸福感を燃やして暖を取るエスキモーである。それがこの本の本当の意味だろう。」p241

 

本当にそんな感じです。まるで神話のようです。

ちょっと立ち止まりたいとき、なんとなく日々がしっくりしないときに手に取っていただきたい1冊です。

 

(文・近藤慎太郎)

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

 

『殺人犯はそこにいる』 清水潔 (書評・近藤慎太郎)

昨年、『文庫X』と称して正式タイトルを伏せられた文庫が書店で平積みになっていたのを覚えている方もいると思います。

そもそもは、とある書店員さんがその本の内容に強い感銘を受け、お客さんに手に取ってもらうためにはどうすればいいだろうかと考えたことが発端でした。

そこで思いついたのが「タイトルを伏せて中身を教えない」という、いわば逆転の発想だったのです。

これが功を奏してジワジワと売れ始め、そこから火がついてその手法のまま全国の書店に広がっていきました。

 

もうキャンペーンも終わっているようなのでネタバレしてもいいと思いますが、その中身がこれです。『殺人犯はそこにいる』

 

殺人犯はそこにいる (新潮文庫 し 53-2)

殺人犯はそこにいる (新潮文庫 し 53-2)

 

 

みなさん、足利事件が冤罪だったいうニュースを覚えていると思います。

幼女を三人殺したとされ死刑判決を受け、およそ17年間服役していた菅谷利和さんが、実際には犯人ではなかったという衝撃的な事件です。

決定的な証拠とされていたDNA判定が実は正確性の低いものであり、その後の再鑑定で別人のものである可能性が非常に高いことが判明しました。また菅谷さんの自供も、刑事や検察に暴力的に誘導されたものだったのです。

菅谷さん自身は判決後よりずっと無罪を主張していて、それを支援する人たちもいたのですが、事態は一向に進展していませんでした。

 

そんな中、DNA鑑定の誤謬を暴き、自分の足で関係者の証言を取り直し、冤罪であることを証明したのが本書の著者なのです。

 

なにせ1990年の事件です。関係者の行方も分からず、手掛かりも雲散霧消しています。しかも当時の捜査関係者は、保身のため非協力的な人ばかり。そんな不利な状況の中、著者と数人のスタッフだけで捜査結果をひっくり返し、真実を証明して見せたその行動力に脱帽です。

 

しかも著者が足利事件に関わるようになった、その動機が凄いです。

幼女が三人殺されたとされるその地域では、一定期間に実は四人の幼女が殺されていて、その他に一人が今も行方不明になっているのです。

別々の事件とされているそれらを、著者は同一犯によるものと確信しました。しかしそのうち二人の事件は菅谷さんが収監された後に起こっている。

…ということは菅谷さんは真犯人ではありえない。

真犯人をあばき出すためには、まず菅谷さんが真犯人ではないことを証明する必要があったので、第1段階として菅谷さんの冤罪を証明して見せたのです。

この人、本当に凄いと思います。

 

そして菅谷さんの冤罪を暴いた後には、当然真犯人を見つける必要があります。著者は真犯人に迫れるのでしょうか…?

 

これ以上はどうぞ本書を読んで確認してください。

 

この著者の行動力に感服するとともに、私が本書を読んで強く感じたのは、冤罪に代表されるように、「世の中にはあってはいけないことが普通に起きているんだな」ということでした。

 

なんらかのミスによって、一人の人間の人生をメチャクチャに破壊することがありうるという不条理性。

多くの人間がそれに加担しておきながら、だれも責任を取らないという異常性。

それがこのように現実の世界で起きていて、もしかしたら冤罪なのに今も服役している人がいるのかもしれません…。

その恐ろしさに暗澹たる気持ちになります。

 

冤罪事件がその最たるものでしょうが、おそらくこれはどの職種であってもありうることです。

命を扱う、もっともあってはいけない場所の一つである病院であっても、時々目を覆いたくなる医療ミスが起きているのは新聞等で報道されているとおりです。

 

私たちはだれしも、望むと望まざるとにかかわらず、他人の人生に関与しています。それは極端に言えば、少しずつであっても生死に関与している、ということです。

冤罪や医療ミスのように因果関係がはっきりしているものもあれば、何気なく相手に言った一言や取った行動、それらが実は相手の中に深く根を下ろし、その人にマイナスの影響を与え続けるということだってありえます(特に親子間でその傾向は顕著でしょう)。

それを100%避けるということは難しいことです。しかし、人と関わるとはそういうことなのだと、自戒も込めて強く感じています。

 

(文・近藤慎太郎)

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

 

『みをつくし料理帖』 高田郁 (書評・近藤慎太郎)

もともと私は時代小説というものをあまり好んで読んではいませんでした。

読んだとしても、せいぜい司馬遼太郎池波正太郎どまりで、特に現代の作家によって書かれた時代小説はまったくと言っていいほど食指が動きませんでした。

 

その唯一の例外だったのが宮部みゆきの諸作品です。

 

本所深川ふしぎ草紙 (新潮文庫)

本所深川ふしぎ草紙 (新潮文庫)

 

 

<完本>初ものがたり (PHP文芸文庫)

<完本>初ものがたり (PHP文芸文庫)

 

 

もともとは『我らが隣人の犯罪』や『火車』といった現代を舞台にした小説から入り、そのストーリーテリングの巧みさ、ちょっとした描写の説得力に魅かれてファンになったのです。

 

我らが隣人の犯罪 (文春文庫)

我らが隣人の犯罪 (文春文庫)

 

 

火車 (新潮文庫)

火車 (新潮文庫)

 

 

未読の作品を漁っていくうちに、否応なく作者による時代小説を手に取るようになりました。そこでもやっぱり作者の才能は遺憾無く発揮されていて、素材によっておのずと舞台となる時代が決まるだけであって、エンターテイメントの質としては同等、もしくは現実社会のせせこましい制約がない分、空想の羽を広げやすい面もあるんだなと感じました。

 

その経験から、「食わず嫌いはやめよう」と思って少しずつ時代小説を読み始めた時に出会ったのが本書です。

 

八朔の雪―みをつくし料理帖 (ハルキ文庫 た 19-1 時代小説文庫)

八朔の雪―みをつくし料理帖 (ハルキ文庫 た 19-1 時代小説文庫)

 

 

享和2年(1802年)、大阪の水害で両親を亡くし、天涯孤独となってしまった少女、澪。その水害で幼馴染の親友、野江も行方不明になってしまう。

 

すべてを失った澪だが、大坂一の名料理屋「天満一兆庵」に住み込みで働き始め、やがて天性の才能を発揮して、料理人として成長してゆく。

そんな折、店が貰い火で焼失してしまう。澪は母代わりの女将とともに、女将の息子をたよって江戸に出てくるも、息子は行方不明になってしまっていた。

 

ショックとつましい長屋暮らしで体調を崩した女将を支えながら、小さな小料理屋で働き始める澪。大阪と江戸の食文化の違いに戸惑いつつも、持ち前の才能と前向きさを発揮して、徐々に料理人としての評判を高めていく。

しかしそれをこころ良く思わない老舗料理屋「登龍楼」の嫌がらせが始まった…。

 

女将の息子に何があったのか?親友の野江はどこに?

 

「苦労の多い人生を耐えて前に進み続けれれば、必ず雲を突き抜けて青空が広がるという“雲外蒼天(うんがいそうてん)”の子」と易者に予言された澪。

果たして澪の運命はどうなるのか…?

 

というストーリーです。

最初は「おいおいそれ散々やり尽くされた王道ストーリーだよね?そんなベタな設定で大丈夫?こっちはそれなりにいろんな本読んでますけど…」と思いましたが、結論から言うとまったく問題ありませんでした。

メジャーリーガー級、100マイルオーバーの豪速球です。

もう完全にど真ん中のストレートですが、かすりもしません。

1巻を読み終えるまでに3回ぐらい泣きました。

 

本作品は多面的な魅力に溢れています。

まず、とにかく出てくる料理が本当に美味しそうです。

味わい焼き蒲鉾、とろとろ茶わん蒸し、かて飯、金柑の蜜煮…

「それ食べたい…」と何度思ったことか。

シンプルな料理なのだけれども、飽食になれた現代読者の夢想を喚起する。その描写力が見事です。

 

また登場人物たちがとても魅力的です。

一人ひとりのキャラがしっかりしていて、ふるまいやセリフにそれぞれ固有の説得力があります。

特に癇癪もちでいつも怒鳴り散らしている戯作者が最高のアクセントになっています。

 

そして山あり谷ありのストーリー展開と、並行して散りばめられる伏線の見事さ。伏線が見事過ぎて回収時にこちらが忘れているほどです(笑)。

あ、それがそうなって、これがこうなるの?みたいに、絡み合った事情がしかるべきところに収まっていきます。

そしてそれが意外性を持ちながらも、決して心情的に無理がないのです。

 

全10巻の長丁場で、ここまで細心の注意を払いながらすべてをコントロールしつくすとは、この作者、尋常じゃない完璧主義者とお見受けします。

 

1年以上かけてゆっくりゆっくり楽しんできましたが、とうとう読み終わってしまいました。

寂しい気持ちでいっぱいですが、作者による新シリーズが始まっていますので、今後はそちらを楽しみにしていきたいと思います。

 

あきない世傳 金と銀 源流篇 (時代小説文庫)

あきない世傳 金と銀 源流篇 (時代小説文庫)

 

 

 

(文・近藤慎太郎)

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

 

『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』 湯浅 誠 (書評・近藤慎太郎)

私がこのブログを通じて伝えたいメッセージをごく簡単に言えば、「健康を守るためには自分自身が能動的に関わる必要がある」ということです。

 

市区町村などを主体としたいわゆる「健診」を受けるだけでは心許なく、自分自身の疾患リスクを最小限にするためには、健診を主体としつつも、人間ドックなどの項目を「健診の不足分を補うように賢く活用」して行くことが大切だと考えています。

 

ただし、誤解がないように強調しておきたいのですが、私は決して「健診が役に立たない」と言っているわけではありません。健診はいわば「最低限、必要な基礎」なのです。たとえバリウム検査や便潜血検査が十分ではなかったとしても、受けることによってリスクをある程度は下げることができるのですから、捨て去る必要はまったくありません。

 

特に、人間ドックなどを活用する場合に多少の出費が必要になってしまうので、その点に関して抵抗感がある方もいらっしゃるでしょう。

 

そしてさらには、生活するだけで精一杯で、「長期的な健康を保持する」という、目に見えにくい目的に対してのプラスアルファの出費など考えられない、という方もいらっしゃるかもしれません。

 

近年、日本の貧困層が拡大していることが大きな社会問題となっています。

そういう方たちの健康をどう担保して行くのかと言うことも、避けることができない大事な問題です(とりあえずは、健診だけでもしっかり受け続けていただきたいと思います)。

 

貧困層の拡大については、

「企業の国際的な競争力を確保するために法人税が引き下げられ、非正規雇用、つまり雇用の不安定な層が拡大した。法人税引き下げを相殺するために社会保障は縮小され、状況がさらに悪化した。」

という説明がなされることが多いと思います。

その検証には私では力不足ですが、一定の説得力があることは確かです。

 

いずれにせよ貧困問題は現実のものとなっています。

 

前置きが長くなってしまいましたが、本書『反貧困』は、貧困層拡大の経緯と現状を整理し、私たちが理解を深めてどのように行動していくべきなのか、問題提起を行なっています。

 

著者、湯浅誠氏は1969年生まれの社会活動家で、ホームレスなど貧困状態にある人たちのサポートを続けてきました。

 

2008年の年末に設置された、『年越し派遣村』の村長としても有名です。

本書は、そのような最前線で向き合ってきた人だけが書ける、説得力に満ちたレポートになっています。

  

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書)

 

 

貧困問題を語る際には、必ず「自己責任論」がつきまといます。

つまり、貧困状態に陥ったのは、当人の努力が足りなかったからだ、将来への見通しが甘かったからだ、と言うものです。

確かにそう言う面も否定はできません。

ただし著者はこう指摘します。

 

貧困とは、選択肢が奪われていき、自由な選択ができなくなる状態だからだ。p74

 

自己責任論とは「他の選択肢を等しく選べたはず」という前提で成り立つ議論である。他方、貧困とは「他の選択肢を等しく選べない」p82

 

確かにそうなのかもしれません。

たとえば学生時代に、勉強でも、スポーツでも、音楽でもどんな分野でも構いませんが、その分野でどんどん成長していく人がみなさんの周りにもいたと思います。

 

その人たちは、なんでそんなことが可能だったのでしょうか?

それは、逆説的な言い方になりますが、それが可能だったからでしょう。

つまり、実際に周囲の人より勉強ができたり、スポーツが上手かったり、音楽的なセンスがあったりしたからこそ、成長していけたのでしょう。

 

努力をすれば結果に繋がるという実感が当人にあるからこそ努力ができる、という側面も確かにあります。いわば努力を可能にする取っ掛かりがあるのです。

しかし、みんながみんな何かそのような取っ掛かりに出会えるとは限りません。

 

また、親など周囲の環境が整っていることも重要な要素です。

何かに集中するためには周囲のサポートが必要ですし、たとえ取っ掛かりがなかったとしても、周囲に持ち上げてもらえば、自分なりのポジションを見つけることができやすくなっているはずです。

 

親に金銭的な余裕がなければ、教育に十分なお金が掛けられないかもしれません。親が忙しくて将来的な相談ができないかもしれません。アルバイトをして家計を助けなくてはいけないかもしれないし、もっとひどい場合はネグレクトや虐待だってありえるでしょう。

 

そんな孤立無援の状態でも、自分だったら必ず這い上がって行けると自信を持って言えるでしょうか?

実際に、企業の経営者などにそういう方がいるのは承知していますが、それはあくまでレアケースであって、大半の方は難しいのではないでしょうか。少なくとも私はまったく自信がありません。

 

それを考えれば、貧困状態に陥った方を一括りに自己責任なのだと言うことは難しいと思います。

 

また、本書はさらに重大な指摘をしています。

 

日本のもろもろの低所得者向けサービスも、生活保護基準を基点に定められている。p188

 

それゆえ、最低生活費の切下げは、生活保護受給者の所得を減らすだけには止まらない。生活保護基準と連動する諸制度の利用資格要件をも同時に引き下げるため、生活保護を受けていない人たちにも多大な影響を及ぼす。p189

 

特に最近は、生活保護費の不正受給がさかんに報道され、あたかも生活保護受給者へのネガティブキャンペーンの様相を見せています。

そういった報道に、わたしたちの意識が誘導されている可能性はないでしょうか?

生活保護基準を厳しくすることよりも、非正規雇用者の環境改善や最低賃金の引き上げの方が意義のあることなのではないでしょうか?

もちろんお金の問題は残りますが、企業の内部留保の多さが問題視されている現状において、本当にお金が適切な場所に流れているのかといった問題意識は、常に持ち続ける必要があると思います。

 

最後に、本書は、わたしたちに強いメッセージを送ります。

 

貧困が大量に生み出される社会は弱い。どれだけ大規模な軍事力を持っていようとも、どれだけ高いGDPを誇っていようとも、決定的に弱い。そのような社会では、人間が人間らしく再生産されていかないからである。誰も、弱い者イジメをする子どもを「強い子」とは思わないだろう。p209

 

色々反論はあるかもしれませんが、とても立派な本だと思います。興味のある方はご一読を。

 

(文・近藤慎太郎)

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

 

近藤慎太郎 講演:がんで死なない技術

きたる8月4日金曜日の14時30分より、スルガ銀行二子玉川支店にて講演を行います。

本ブログと拙著『がんで助かる人、助からない人』のエッセンスを効率的に吸収することができます。

 

本講演はどなたでも無料でご参加いただけます。

平日の日中ですが、むしろその時間帯なら行けるという方は、ぜひこの機会にご参加ください。お待ちしております~!

 

(文・近藤慎太郎)

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」

がんで助かる人、助からない人 専門医がどうしても伝えたかった「分かれ目」