『大河の一滴』五木寛之 その2 (書評・近藤慎太郎)

前回、本書には、日本人の通奏低音として流れるイメージを喚起する力があると書きました。

 

大河の一滴 (幻冬舎文庫)

大河の一滴 (幻冬舎文庫)

 

 

西洋的な善と悪の二元論を捨てて、もっと肩の力を抜く。

清濁併せ呑み、融通無碍に生きる。

あくせくせずに、大いなる自然の流れ、循環に身を任せる。

 

これは、自然界の万物に神が宿っていると考え、畏れ敬うという神道の考え方が根本にあるのかもしれません。

 

私自身も抗いがたい魅力を感じる一人ですが、こういう考え方、価値観には、固有の落とし穴もあると思います。

 

善と悪を峻別するとまではいかなくても、多くの選択肢の中から自分にとってベストのものを、自分の責任で選び取るということは、それなりに困難を伴う作業です。

 

その一方、「大いなる自然の流れ、循環に身を任せる」というのは、悪く言えば「成り行きに任せて責任を回避している」とも解釈できます。

 

辛い時にそういう考えを取り入れて、しばし気持ちをラクにするというのは人間には必須の知恵でしょうが、それが常態になってしまえば、単に困難から目を逸らして生きているだけになってしまいます。

 

また、本書で一ヶ所だけ気になる記述がありました。

その趣旨は以下の通りです。

 

「人間の体をつくっている細胞は、すべて老いていく。また、紫外線や汚染物質によって傷ついていく。そしてその周囲にそれをバックアップしようという善意のボランティアが出てくる。彼らが頑張りすぎて止まらなくなったものが癌である。

癌は悲鳴をあげながら暴走している哀れな細胞です。だれか止めてくれ、と叫びながら突っ走っている。癌はもともと善意の細胞なのだから、叩きつぶすとか放射線で焼き殺すとか闘病とか、そういう考えかたは基本的にどこかズレている。」

 

これもとてもありがちな、日本的な考え方だと思います。

万物に神が宿っているという考え方同様、自然現象を擬人化して、そこに意味を持たせてしまいがちなのかもしれません。

著者のマイルドな語り口に乗せられて気持ち良く読んでいると、特に違和感なくスッと内容を受け入れてしまう読者もたくさんいると思います。

しかし、いくらなんでもウェット過ぎるでしょう。 これも日本的な落とし穴の一つです。

 

 

私自身、日本的、神道的なものの考え方に強く共鳴する一人です。

しかし、私を含めて、それを最後まで貫き通す覚悟を持った人はそんなに多くないように思います。

大いなる流れに身を任せておきながら、いざがんができてしまったら、「こんなことは受け入れられない」とばかりに急に西洋的に白黒つけようとアタフタしてしまうのではないでしょうか。

 

ただしこれはどちらかの考え方を選択しなくてはいけない、ということではないと思います。

全体として日本的な価値観を取り入れながらも、要所要所で健康チェックなどをして、西洋的な価値観も保険として取り入れておけばいいのです。

いいとこ取りで全く構わない、と私は思います。