『大河の一滴』五木寛之 (書評・近藤慎太郎)

胃がん検診の話が一段落したので、食道がん検診の話に入る前に、気分を変えて何回か書評をしたいと思います。

ジャンルを問わずというわけにはいかないので、とりあえず『生と死をテーマにした本』という縛りを設けて、少しずつ紹介していきます。

 

さて、第1回目は1998年に出版されて大ベストセラーになった、五木寛之の『大河の一滴』です。

  

大河の一滴 (幻冬舎文庫)

大河の一滴 (幻冬舎文庫)

 

 

第1回目に選ぶほど強い感銘を受けたのかと言われると、必ずしもそうではありません。

ただ最近再読して感じたのは、出版からかれこれ20年近く経つのに、ここで著者が指摘した日本人を取り巻く諸問題が、驚くほど進歩のないままに存在し続けているという事です。

(あまつさえ複雑化して混迷度が増している)

そういった意味では、この作品は今なお新しいし、読む価値があります。

 

この作品は、書き下ろしの『人はみな大河の一滴』と、著者が雑誌やラジオで発表したエッセイをまとめたものです。

おそらく発表された時期はバラバラなのだろうと思うのですが、もともと著者の考え方が大らかで決めつけるような表現をしないので、ある程度の統一感を持って読み進める事ができます。

 

『人はみな大河の一滴』 の著者の論旨は以下の通りです。

 

「日本人は様々な閉塞感、将来に対する拭いきれない不安感に日々晒されており、自殺者の数は非常に高い値で推移している。

しかし、本来この世は地獄であって、人間の一生とは、本来苦しみと絶望の連続なのだ。

現代の日本人は、なにも期待しないで生きるという究極のマイナス思考から出発するべきなのだ。

なにも期待していないときこそ、思いがけず他人から注がれる優しさや、小さな思いやりが心に染み入るのだ。

からからにひび割れ、乾ききった大地だからこそ降りそそぐ一滴の雨水が甘露と感じられるのだ。暗黒のなかだからこそ、一点の遠い灯に心がふるえるのである。」

 

これだけであれば、テクニックや処世術の範疇に収まるかもしれませんが、著者はさらにこう考えます。

 

「自分をちっぽけな、頼りない存在と考え、もっとつつましく、目を伏せて生きるほうがいいのではないか。

海へと注ぐ大河の水の一滴が私たちの命だ。濁った水も、汚染された水も、すべての水を差別なく受け入れて海は広がる。

やがて海水は空の雲となり、ふたたび雨水となって地上に注ぐ。

高い嶺に登ることだけを夢見て、必死で駆けつづけた戦後の半世紀をふり返りながら、いま私たちはゆったりと海へくだり、また空へ還っていく人生を思い描くべきときにさしかかっているのではあるまいか。」

 

西洋的な善と悪の二元論を捨てて、もっと肩の力を抜く。

清濁併せ呑み、融通無碍に生きる。

あくせくせずに、大いなる自然の流れ、循環に身を任せる。

これは、宗教観を持っているような持っていないような日本人の奥底に、通奏低音として流れるイメージなのかもしれません。

著者の言葉が多くの人の共感を呼ぶのは、そういったイメージを喚起する力があるからなのでしょう。(つづく)