著者はフリーランスのジャーナリスト、ノンフィクション作家です。
日本とアメリカを舞台に様々なメディアに政治・経済のレポートを寄稿する一方、乳がんを患らってから亡くなるまでの6年以上、その治療と経過、自分の考えや感情の推移を克明に記録して1990年前後に何冊か本を出版しました。
著者の作品としては、『よく死ぬことは、よく生きることだ』の方が知られているかもしれませんが、
齟齬が生じないよう丁寧にまとめ上げられたものよりも、日記の方が著者の考えや感情がより自然に近い形で反映されるのではないかと思い、こちらを選びました。
著者の名前を聞いたことがある方は、「乳がんとの壮絶な闘病生活を送り、抗がん剤の副作用に苦しんだ末に亡くなった」というイメージを持っているのではないかと思います。かくいう私もその1人だったのですが、それはむしろ日本のメディアが作り上げたイメージであって、一面事実であったとしても、本書を読んで「トータルの印象はだいぶ違うな」と思いました。
乳がんを患ってから、著者は単身ニューヨークに移り住みます。
そこで周囲のサポートを受けつつ、進行していく乳がんとの闘いを始めます。
しかしその闘病生活にしても、現代医学を盲信して突き進んだわけではありません。
効果がないかもしれないことはきちんと主治医から説明されていて、選択に思い悩みながらも自分らしく生きるため、理性的にがんと向き合って行きます。
そして日々変化する体調と相談しながら、料理を作ってパーティーをしたり、コンサートに行ったり、美術館に行ったりして、残された時間を有意義に使おうと一生懸命努力します。
そのバイタリティには圧倒されます。彼女を中心に周囲がグルグル巻き込まれていくのが目に見えるようです。
そして本来であれば、彼女のやり方を私たちもまったく同じように踏襲しなければいけないのです。いずれ死を迎えるのは彼女も私たちも同じです。それをイメージできているかいないかの違いだけ。本当は誰しももっと1日1日を慈しみながら生きなくてはいけないのでしょう。
そしてそれに関連して、本書はもう一つ大切なことを教えてくれます。
乳がんが縦隔のリンパ節に転移し、その影響で声が出なくなってしまいます。
「声を失うことは、一つの死を死ぬことなのだと思う。こうして、一つずつ死を死んで、死の積み重ねが、最後の死へ私たちを導いていくのだと思う。」と著者は言います。
これは本当にその通りだな、と思いました。
よく「人間は死に向かって生きている」と言われます。総論としてその通りなのですが、その表現だと漠然としていて今ひとつピンときません。
そうではなく、「生きるということは、自分の一部分が少しずつ死んでいくこと」と捉えたらどうでしょうか。
たとえば慢性的に腰や膝が痛いとか、老眼になって見えづらくなったといったことに始まって、病気になって後遺症が残ったというのも、自分の一部が死んだとも言えるでしょう。
そして肉体的なことに限らず、家族や親しい友人を失うということも同様です。やはり自分の大事な一部が死んだのです。
もちろん生きていくに従って新たに手に入れるものもあるでしょうが、大切なものでいったん自分から離れたものは、だいたい永遠に失われてしまうのです。
だからこそ、今手元にあるものを、体であっても、家族や友人であっても、永遠に続くものではないんだという思いを持って、大切に、丁寧に生きて行かなくてはいけないのでしょう。