『カラマーゾフの兄弟』 ドストエフスキー その1 (書評・近藤慎太郎)

古典文学と聞くとみなさんはどんな印象を持っていますか?

 

難解。

訳が古臭い。

段落の区切りが少ない上に、字が小さくて読みづらい。

 

といったところではないでしょうか?

少なくとも、私はそう思っています。

 

古典、その中でも特に哲学的な作品というのは一部の知識階級の「知的遊戯」としての側面も持っていたようなので、意図的に難解に書かれている部分もあるでしょう。

おまけに作品が書かれた当時の社会情勢や常識、あるいは聖書についての一般的な素養を要求するものも多々あり、私をふくめて一般的な日本人が十全に理解するというのは、なかなかハードルが高いことだと思います。

 

さらに、書籍に求められている役割というのも変容していきました。

 

やることが多くて忙しい現代人にとって、読書というのはしばし現実逃避をして、カタルシスを得るための娯楽という側面が大きいのです。しかも音楽とか映画、ゲームなど、その他の競合するコンテンツがひしめきあう中での選択肢の一つに過ぎません。

 

「生とは?」

「死とは?」

「私たちはいかに生きるべきか?」

 

そんな重いテーマについて思索を深めるために読書をするわけではないのです。

 

日本人というのは世界でも有数の活字好きだと思いますが(欧米の大きな都市であっても、本屋の少なさ、小ささには驚きます)、そんな日本人であっても、難解な文章をウンウン唸りながら読み進めるなんて、ごく一部のよっぽどの本好きの方に限られるでしょう。

 

しかし。

以上を踏まえた上でもなお、時間の試練を経て生き残ってきた古典を読まないということは、極めてもったいないことだと思います。

古典が古典たりうるのは、そこにそれだけの要素があるからです。

現代の書籍と違って、古典はごくごく一握りの選ばれた人間が、思索と推敲を重ねに重ねて作り上げたものなのです。

そんな先人たちのまさに知的財産と言うべきものを、やすやすと放棄してしまっていいのでしょうか?

 

私たちは目に見える形の財産に限っては、喜んで継承しています。たとえば建造物、自然、文化、科学などといったものです。

その一方で、先にあげたテーマのように、精神的なもの、抽象的なものは驚くほど世代間で共有されていません。

「たとえば哲学や心理学といったものは過去を継承して発展しているのではないか?」

という反論もあるかもしれません。しかし、それはあくまでそれを専門にしている人たちの中で継承されているだけであって、大多数の一般人の生活に落とし込まれているわけではありません。

 

もちろん精神的・抽象的なものは時代によっても個人によってもふさわしい形が違うから、そもそも継承しにくいという側面はあります。それでもなお、やっぱり人が人として生きるうえで、立場の違いを超えて変わらない本質的なものもあるはずです。なぜそれにまつわる叡知というのはほとんど蓄積されていないのでしょうか。

人間は同じ場所でずーっと足踏みを続けているように思えるのです。

 

「生とは?」

「死とは?」

「私たちはいかに生きるべきか?」

そんな疑問を解消する、とまでは言いません。しかし、ちょっと先まで見通すことができるようになるヒントが、古典の中にはあると思います。

忙しさの中で自分を見失いそうになるとき、古典を読むことによって、「同じ問題意識を持っていたんだな」と思ったり、「なぜ現代とこんなに違うのか」と考えたりすることによって、優れた先人たちに今の自分の立場や価値観を一時的に相対化してもらうことは、非常に有益なことだと思います。

 

古典には優れた効用がある。それは間違いありません。

しかしここでやはり、最初に戻ってしまいます。

 

難解。

訳が古臭い。

段落の区切りが少ない上に、字が小さくて読みづらい。

 

といった問題が再浮上してきてしまうのです。

これをどうすればいいのでしょうか?

(つづく。すみません、『カラマーゾフの兄弟』までたどり着きませんでした…。)