『流』 東山 彰良 (書評・近藤慎太郎)

2015年に本作品は第135回直木賞を満場一致で受賞した。

流

 

著者は、1968年に台湾で生まれたのち、小学校以降は主に日本で育っている。

2002年に『タード・オン・ザ・ラン』で第1回『このミステリーがすごい!』大賞 銀賞および読者賞を受賞してデビューした後、コンスタントに作品を発表し、大藪春彦賞中央公論文芸賞などを受賞。ちょっと意外なところでは、少年ジャンプの『NARUTO』や『魔人探偵脳噛ネウロ』のノベライズも手がけている。

 

さて、本作品について一言で言うと、とても面白かった。

「何者でもなかった。ゆえに自由だった――。

1975年、台北。偉大なる総統の死の直後、愛すべき祖父は何者かに殺された。

内戦で敗れ、追われるように台湾に渡った不死身の祖父。なぜ? 誰が?

無軌道に生きる17歳のわたしには、まだその意味はわからなかった。

台湾から日本、そしてすべての答えが待つ大陸へ。歴史に刻まれた、一家の流浪と決断の軌跡。」(講談社BOOK倶楽部より)

 

舞台である台湾の描写にリアリティがあり、エキゾチック。日本との共通点はありながらもやっぱり違う台湾の社会や文化が物語の推進力に寄与していて、グイグイ読める。

ところどころコミカルな場面もプッと吹き出すぐらい面白い。

ミステリー、ノワール、恋愛、コメディなど様々なエンターテイメントの要素が無理なく溶け込んでいる。

 

ただ、一読した後は、むしろスッキリしなかった。

様々な要素があるのはいいとしても、脱線するストーリーが多くて、「何が一番言いたいのか」ということがいま一つハッキリ分からなかったのだ。

祖父を殺した犯人探しが一番大事な芯のはずだが、途中では完全に置き去りにされている。高校を退学処分になったり、ケンカに明け暮れたり、幼馴染と恋をしたり、軍隊に入ったりしながら、主人公は右往左往する。

壁にぶつかって必死にもがき続ける様には共感するし、もちろん最後には犯人探しもしかるべき所に集束するのだが、なぜこのような構成を取っているのか。

「これは主人公の成長を描く青春小説なんだからそれでいいんだ」と言われれば確かにそうなのだが、その説明だけではこの違和感を解消しきれない。

 

そこを読み解くヒントは、主人公の幼馴染のセリフに隠されている。

 

「でも、そういうことってあるよね。 ずっと昔に止まってた時計が動きだしたみたいにさ、ある日そのときのつづきがまたはじまっちゃうことってさ」

 

うん、そういうことはあるだろうな。絶対ある。

欲しかったもの、好きだった人、なりたかった自分…。

手に入れたかったけど、様々な理由で諦めてしまったことたち。

いったんは忘れられた気持ちになっていたかもしれないが、

長い時間を経た後に、何かと何かが何かのタイミングで偶然重なった時に、そんな気持ちが鮮やかに甦ってしまうことがある。

そして失った時間の長さにおののき、突然しゃにむに目標に向かって邁進してしまう人もいる。その反動が大きければ大きいほど、代償もそれなりに高くつくはずだ。

だから私は、自分の素直な気持ちにはできるだけフタをしない方がいいと思っている。たとえば「マンガ家になりたい」とか。

 

ちょっと卑近な例をあげて脱線したが、結局、本作品の主人公も自分の一族の宿命と対峙するために、成人した後に仕事も辞めて中国大陸へと向かう。まさに止まってた時計が動き出したのだ。

人間は社会と様々な種類のチャンネルで関わっているから、当然その時その時で集中しなくてはいけないこと、優先しなくてはいけないこともある。でも逃れられると思っても、逃れきれないものもあるのだ。

 

では、対峙して努力すればすべてが手に入れられるのかというと、もちろん世の中はそこまで甘くはない。

頑張ったけど、全力で立ち向かったけどダメだった、ということも山ほどあると思う。そんな時、主人公はこう独白する。

 

「心から願うものが手に入らないとき、わたしたちはそれと似たもので満足するしかない。

(中略)

そしていつまでも、似たものを似たものとしてしか認めない。

(中略)

だけど、ほとんどの人は気づいていない。その似たものでさえ、この手に掴むのは、ほとんど奇跡に近いのだ」

 

こんな優しいセリフがあるだろうか。

頑張りすぎて膝は笑っているかもしれないけど、自分はできる限りのことをやったという誇り、矜持があれば、それが自分自身をしっかり支えてくれるだろう。