『カラマーゾフの兄弟』とは一体、どんな物語なのでしょうか?
本作品は、『罪と罰』『白痴』『悪霊』など で知られるロシアの文豪ドストエフスキーの代表作の一つで、1879年から1880年にかけて発表されました。
ドストエフスキーは発表直後に59歳で亡くなったので、これが最後の作品になります。
そういう意味では、内容的にも思想的にも最高峰に位置しているとも言えるでしょう。
女好きな守銭奴で、品性に問題のある父親フョードル・カラマーゾフと、
その三人の息子で
直情型で破天荒なドミートリー、
知的な無神論者のイワン、
温厚な修道僧のアレクセイ、
さらにフョードルの私生児という噂もある下男のスメルジャコフや周囲の人々をめぐる物語です。
人生や死、神はいるのかといった高尚なテーマと、昼ドラのようなドロドロした愛憎劇が有機的に絡み合いながら展開して行きます。
特に、男と女の愛憎、そして男をめぐる女同士の闘いなど、その激しさ、奥深さにハッとします。
古典だからのんびりしているんだろうなんて考えていると、それなりのエゲツなさに完全に足元をすくわれます。
高尚なだけが人間でもないし、低俗なだけが人間でもない。上から下まで全部ひっくるめた総体としての人間像が描かれています。
もちろん大文豪ドストエフスキーによる、優れた人間観察がなせるわざでしょう。
そしておそらく、ドストエフスキー自身がそのようなごちゃ混ぜの人間だったのでしょう。
登場人物のスメルジャコフと同様に、ドストエフスキーには癲癇の持病がありました。
訳者はこう解説します。
「発作のさいに経験する死の恐怖と、そこからの解放というサイクルを経るなかで、果てることのない死と再生のドラマを経験してきた。つねに生と死の双方のもっとも近くにあった(中略)」
その過酷な経験が、ドストエフスキーの死生観の醸成、深化に寄与したことは想像に難くありません。
そしてその一方、ドストエフスキーは重度のギャンブル中毒でいつもお金に困っており、女性に対してもだらしがなかった。
まさしく『カラマーゾフの兄弟』の登場人物のようです。
様々な境遇を経験し、人と人の関係を慎重に、そして意地悪く観察しながら、自分自身の心の中にも深くわけいっていったのでしょう。
そのことが登場人物の造形に強く、深く関わっています。全員、価値観はまったくのバラバラなのに、一人一人の思想やセリフにリアリティ、説得力があるのです。
それは、すべてのキャラクターにドストエフスキーの一面がそれぞれ宿されているからでしょう。彼自身が一般人でもあり、聖職者でもあり、無神論者でもあり、弁護士でもあり、検事でもあるのです。
作品の場を借りて、ドストエフスキー自身がそれぞれ対立する立場に身を置いて、激しく意見を戦わせています。その結果、この作品では人と人が議論、ディベートする場面がめっぽう面白いのです。
聖職者vs無神論者、容疑者vs検事、父親vs息子、検事vs弁護士…。
本作品はディベートで成り立っていると言っても過言ではありません。
スリリングで ありながらも、ドロドロ、グルグルした会話が延々と続きます。
その執拗さ、過剰さは常軌を逸しています。
普通、こんなに長く書けません。
他の人がこの小説を書いたら、おそらく1/3ぐらいのボリュームになってしまうでしょう。
しかし、ドストエフスキーは言葉を巧みに 操りながら、手を変え品を変えて描写を重ねていきます。
そしてその長さが決して不快ではなく、いつまでもこの世界に浸っていたいとすら思うほどなのです。さすが大文豪です。
さて、最後に意外な事実があります。
本作品の冒頭に、著者による序文があり、そこには『カラマーゾフの兄弟』は2部構成になっていると書かれています。
つまり、本作品は第1部であり、実は書かれないままに終わってしまった第2部がある、というのです。
しかも驚くことに、第2部の方が重要だとすらはっきり書かれているのです。
確かに本作品では三兄弟の行方が未確定のまま終わっています。
そして注意深く読んでいると、おそらく第2部のための伏線だろうなという部分が随所に認められます。
では、そこから第2部ではどのように展開するつもりだったのか?
畢生の大作である本作よりも、より重要だという第2部はどんな物語だったのか?
もう決して読むことはできないその偉大な物語を想像するのは、残念ではありながらも心踊ることです。