『モモ』 ミヒャエル・エンデ (書評・近藤慎太郎)

ミヒャエル・エンデはドイツの児童文学、ファンタジー作家です。

日本でも 以前から人気は高く、その作品にふれたことがある方も多いと思います。

 

エンデのデビュー作『ジム・ボタンの機関車大旅行』は、1970年代に日本で放映されていたTVアニメ『ジムボタン』の原作です。私は小さい頃このアニメが大好きで、かなり熱心に見ていました。ややマイナーな作品だからか、残念ながら映像ソフト化はされていません…。

 

ジム・ボタンの機関車大旅行 (岩波少年文庫)

ジム・ボタンの機関車大旅行 (岩波少年文庫)

 

 

また、代表作の一つ『はてしない物語』は大ヒット映画『ネバーエンディング・ストーリー』の原作です。このタイトル名を聞くと、リマールが歌う主題歌が自動的に脳内で再生される方も多いと思います。

 

はてしない物語 (上) (岩波少年文庫 (501))

はてしない物語 (上) (岩波少年文庫 (501))

 

 

そして、もう一つの代表作がこの作品です。

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 

『モモ』

時間をテーマにした傑作ファンタジーです。

 

ある日、とある都市(ローマ?)の円形劇場の廃墟に、モモという名前の女の子が住みつきます。

ボサボサの髪の毛、ダブダブの上着、長すぎるスカート、そのうえ裸足で、身寄りがありません。

しかしそんなモモには、人の話を聞いてあげることによって相手を癒したり、気づきを与えたりする不思議なちからが備わっていました。そしてモモはあっという間に、町の人たちにとって、なくてはならない大切な存在になっていきます。

 

そんなおり、町に奇妙な身なりの男たちが現れるようになりました。

灰色の帽子に、灰色の背広、灰色の書類カバンを持ち、灰色の葉巻をくゆらせる、

「灰色の男」たちです。

彼らは時間貯蓄銀行のエージェントを名乗り、町の人たちに、時間を節約することと、その結果余った時間を銀行に預けることを勧めます。時間を預けておけば利子もたまり、必要になった時に引き出せるというのです。

 

町の大人たちは言葉たくみに誘導され、こぞって時間を節約し始めます。

丁寧に仕事をする時間を削り、年老いた親を見舞う時間を削り、セキセイインコの世話をする時間を削っていきます。

できるだけ短時間に、できるだけたくさんの仕事をすることが重要視されます。

その結果、身なりは立派になっていく一方、おこりっぽい、落ち着きのない人間になっていってしまいます。

 

そして実は、そんな思いをしてまで節約した時間は、すべて灰色の男たちに盗まれていたのです。

節約した時間を盗まれ、残った時間でさらに節約に励む大人たち。結局ますます時間に追われて、殺人的にいそがしくなってしまうのです。

 

モモは灰色の男たちの誘惑を退けられた唯一の住民であり、それを脅威と感じる灰色の男たちから追われてしまいます。

そのような状況の中で、モモは町の人たちを救うことができるでしょうか?

 

 

以上のあらすじからも分かる通り、この作品は効率化や経済規模の拡大だけを求めてあくせく働く現代人に対する痛烈な風刺になっています。

 

本来何らかの目標があるから手段として効率化をはかって働くはずなのに、どこかの過程で目標は失われてしまい、効率化という手段が目標に置き換わってしまうのです。そして捻出した時間には新しい仕事がねじこまれ、さらなる効率化が求められていきます。

そんな大規模なチキンレースに参加している大人であれば、本作品を読んで身につまされる気持ちになると思います。

 

ただし、批判の意図は明らかなのに、本作品は決して説教臭くはありません。あくまで人を楽しませるファンタジーの枠組みの中に無理なく落とし込まれているからです。

灰色の男の異様さ、現代の価値観に毒されていないモモの魅力、モモに味方してくれる勢力の神秘性など、エンターテイメントとしてもきちんと成立しています。

子どもが読んでも、本作品を純粋に楽しめるでしょう。エンターテイメントの中に人生の教訓をこっそり忍ばせておくというのが、ファンタジーの真髄なのかもしれません。

『流』 東山 彰良 (書評・近藤慎太郎)

2015年に本作品は第135回直木賞を満場一致で受賞した。

流

 

著者は、1968年に台湾で生まれたのち、小学校以降は主に日本で育っている。

2002年に『タード・オン・ザ・ラン』で第1回『このミステリーがすごい!』大賞 銀賞および読者賞を受賞してデビューした後、コンスタントに作品を発表し、大藪春彦賞中央公論文芸賞などを受賞。ちょっと意外なところでは、少年ジャンプの『NARUTO』や『魔人探偵脳噛ネウロ』のノベライズも手がけている。

 

さて、本作品について一言で言うと、とても面白かった。

「何者でもなかった。ゆえに自由だった――。

1975年、台北。偉大なる総統の死の直後、愛すべき祖父は何者かに殺された。

内戦で敗れ、追われるように台湾に渡った不死身の祖父。なぜ? 誰が?

無軌道に生きる17歳のわたしには、まだその意味はわからなかった。

台湾から日本、そしてすべての答えが待つ大陸へ。歴史に刻まれた、一家の流浪と決断の軌跡。」(講談社BOOK倶楽部より)

 

舞台である台湾の描写にリアリティがあり、エキゾチック。日本との共通点はありながらもやっぱり違う台湾の社会や文化が物語の推進力に寄与していて、グイグイ読める。

ところどころコミカルな場面もプッと吹き出すぐらい面白い。

ミステリー、ノワール、恋愛、コメディなど様々なエンターテイメントの要素が無理なく溶け込んでいる。

 

ただ、一読した後は、むしろスッキリしなかった。

様々な要素があるのはいいとしても、脱線するストーリーが多くて、「何が一番言いたいのか」ということがいま一つハッキリ分からなかったのだ。

祖父を殺した犯人探しが一番大事な芯のはずだが、途中では完全に置き去りにされている。高校を退学処分になったり、ケンカに明け暮れたり、幼馴染と恋をしたり、軍隊に入ったりしながら、主人公は右往左往する。

壁にぶつかって必死にもがき続ける様には共感するし、もちろん最後には犯人探しもしかるべき所に集束するのだが、なぜこのような構成を取っているのか。

「これは主人公の成長を描く青春小説なんだからそれでいいんだ」と言われれば確かにそうなのだが、その説明だけではこの違和感を解消しきれない。

 

そこを読み解くヒントは、主人公の幼馴染のセリフに隠されている。

 

「でも、そういうことってあるよね。 ずっと昔に止まってた時計が動きだしたみたいにさ、ある日そのときのつづきがまたはじまっちゃうことってさ」

 

うん、そういうことはあるだろうな。絶対ある。

欲しかったもの、好きだった人、なりたかった自分…。

手に入れたかったけど、様々な理由で諦めてしまったことたち。

いったんは忘れられた気持ちになっていたかもしれないが、

長い時間を経た後に、何かと何かが何かのタイミングで偶然重なった時に、そんな気持ちが鮮やかに甦ってしまうことがある。

そして失った時間の長さにおののき、突然しゃにむに目標に向かって邁進してしまう人もいる。その反動が大きければ大きいほど、代償もそれなりに高くつくはずだ。

だから私は、自分の素直な気持ちにはできるだけフタをしない方がいいと思っている。たとえば「マンガ家になりたい」とか。

 

ちょっと卑近な例をあげて脱線したが、結局、本作品の主人公も自分の一族の宿命と対峙するために、成人した後に仕事も辞めて中国大陸へと向かう。まさに止まってた時計が動き出したのだ。

人間は社会と様々な種類のチャンネルで関わっているから、当然その時その時で集中しなくてはいけないこと、優先しなくてはいけないこともある。でも逃れられると思っても、逃れきれないものもあるのだ。

 

では、対峙して努力すればすべてが手に入れられるのかというと、もちろん世の中はそこまで甘くはない。

頑張ったけど、全力で立ち向かったけどダメだった、ということも山ほどあると思う。そんな時、主人公はこう独白する。

 

「心から願うものが手に入らないとき、わたしたちはそれと似たもので満足するしかない。

(中略)

そしていつまでも、似たものを似たものとしてしか認めない。

(中略)

だけど、ほとんどの人は気づいていない。その似たものでさえ、この手に掴むのは、ほとんど奇跡に近いのだ」

 

こんな優しいセリフがあるだろうか。

頑張りすぎて膝は笑っているかもしれないけど、自分はできる限りのことをやったという誇り、矜持があれば、それが自分自身をしっかり支えてくれるだろう。

『カラマーゾフの兄弟』 ドストエフスキー その3 (書評・近藤慎太郎)

カラマーゾフの兄弟』とは一体、どんな物語なのでしょうか?

  

本作品は、『罪と罰』『白痴』『悪霊』など で知られるロシアの文豪ドストエフスキーの代表作の一つで、1879年から1880年にかけて発表されました。

ドストエフスキーは発表直後に59歳で亡くなったので、これが最後の作品になります。

そういう意味では、内容的にも思想的にも最高峰に位置しているとも言えるでしょう。

 

女好きな守銭奴で、品性に問題のある父親フョードル・カラマーゾフと、

その三人の息子で

直情型で破天荒なドミートリー、

知的な無神論者のイワン、

温厚な修道僧のアレクセイ、

 

さらにフョードルの私生児という噂もある下男のスメルジャコフや周囲の人々をめぐる物語です。

 

人生や死、神はいるのかといった高尚なテーマと、昼ドラのようなドロドロした愛憎劇が有機的に絡み合いながら展開して行きます。

 

特に、男と女の愛憎、そして男をめぐる女同士の闘いなど、その激しさ、奥深さにハッとします。

古典だからのんびりしているんだろうなんて考えていると、それなりのエゲツなさに完全に足元をすくわれます。

 

高尚なだけが人間でもないし、低俗なだけが人間でもない。上から下まで全部ひっくるめた総体としての人間像が描かれています。

もちろん大文豪ドストエフスキーによる、優れた人間観察がなせるわざでしょう。

そしておそらく、ドストエフスキー自身がそのようなごちゃ混ぜの人間だったのでしょう。

 

登場人物のスメルジャコフと同様に、ドストエフスキーには癲癇の持病がありました。

訳者はこう解説します。

「発作のさいに経験する死の恐怖と、そこからの解放というサイクルを経るなかで、果てることのない死と再生のドラマを経験してきた。つねに生と死の双方のもっとも近くにあった(中略)」

その過酷な経験が、ドストエフスキーの死生観の醸成、深化に寄与したことは想像に難くありません。

 

そしてその一方、ドストエフスキーは重度のギャンブル中毒でいつもお金に困っており、女性に対してもだらしがなかった。

まさしく『カラマーゾフの兄弟』の登場人物のようです。

 

様々な境遇を経験し、人と人の関係を慎重に、そして意地悪く観察しながら、自分自身の心の中にも深くわけいっていったのでしょう。

そのことが登場人物の造形に強く、深く関わっています。全員、価値観はまったくのバラバラなのに、一人一人の思想やセリフにリアリティ、説得力があるのです。

それは、すべてのキャラクターにドストエフスキーの一面がそれぞれ宿されているからでしょう。彼自身が一般人でもあり、聖職者でもあり、無神論者でもあり、弁護士でもあり、検事でもあるのです。

作品の場を借りて、ドストエフスキー自身がそれぞれ対立する立場に身を置いて、激しく意見を戦わせています。その結果、この作品では人と人が議論、ディベートする場面がめっぽう面白いのです。

 

聖職者vs無神論者、容疑者vs検事、父親vs息子、検事vs弁護士…。

 

本作品はディベートで成り立っていると言っても過言ではありません。

 

スリリングで ありながらも、ドロドロ、グルグルした会話が延々と続きます。

その執拗さ、過剰さは常軌を逸しています。

普通、こんなに長く書けません。

他の人がこの小説を書いたら、おそらく1/3ぐらいのボリュームになってしまうでしょう。

しかし、ドストエフスキーは言葉を巧みに 操りながら、手を変え品を変えて描写を重ねていきます。

そしてその長さが決して不快ではなく、いつまでもこの世界に浸っていたいとすら思うほどなのです。さすが大文豪です。

 

さて、最後に意外な事実があります。

本作品の冒頭に、著者による序文があり、そこには『カラマーゾフの兄弟』は2部構成になっていると書かれています。

つまり、本作品は第1部であり、実は書かれないままに終わってしまった第2部がある、というのです。

しかも驚くことに、第2部の方が重要だとすらはっきり書かれているのです。

 

確かに本作品では三兄弟の行方が未確定のまま終わっています。

そして注意深く読んでいると、おそらく第2部のための伏線だろうなという部分が随所に認められます。

では、そこから第2部ではどのように展開するつもりだったのか?

畢生の大作である本作よりも、より重要だという第2部はどんな物語だったのか?

もう決して読むことはできないその偉大な物語を想像するのは、残念ではありながらも心踊ることです。

『カラマーゾフの兄弟』 ドストエフスキー その2 (書評・近藤慎太郎)

古典は優れた効用がある知的財産であって、捨て去るのはもったいない。

しかし、

 

難解。

訳が古臭い。

段落の区切りが少ない上に、字が小さくて読みづらい。

 

といった問題があります。

どうすればいいのでしょうか?

 

そのような状況の中で、2006年から光文社の『古典新訳文庫』シリーズが刊行されています。これは、東西の古典を「いま、息をしている言葉で」新たに翻訳して、現代に再生させようという試みです。

 

そのアイディア自体は目新しいことではないと思います。古典の牙城、岩波文庫は別にして考えるとしても、各出版社が古典の新訳本を散発的に出しているからです。

 

ただしこのシリーズはダントツで息が長い。その点で他の出版社の試みと完全に一線を画しています。かれこれ10年以上続いており、ドストエフスキーシェイクスピアニーチェマルクスなどメジャーなものから様々なマイナーなものまで、すでに200タイトル以上がコンスタントに刊行され続けています。

 

これだけ続いているということは、出版社の努力ももちろんでしょうが、実際にこのシリーズが読者に広く支持されていて、商業的にも成功しているのでしょう。特に、後ほど取り上げる『カラマーゾフの兄弟』は、全5巻合わせて100万部以上販売されているとのことです。古典でそれだけ売れるというのは、異例のことなのではないでしょうか。

 

そしてここで特に言及しておきたいのは、装丁の素晴らしさです。

すべてのイラストを美術家の望月通陽氏が手がけています。

これが、安易なカテゴライズを許さない、きわめて独創的なイラストなのです。

  

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

 

1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編 (光文社古典新訳文庫)

1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編 (光文社古典新訳文庫)

 

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

 

大胆かつ繊細、そして摩訶不思議な曲線で描かれた、

人間のような、

妖精のような、

エクトプラズムのような、

クリオネのような、

機械のような、

よくわからないもの。

 

有機物なのか無機物なのか

幼いのか老いているのか

過去なのか未来なのかすらわかりません。

 

つかみどころのないスケール感が古典のイラストとしてとても合っていると思います。

 

 

さて、本シリーズは読みやすさを第一に掲げているため、ある程度思い切った翻訳、意訳なども多いようで、一部のタイトルには賛否両論あるようです。

確かに作品の雰囲気からあまりにも掛け離れてしまうのは問題ですが、このまま放っておけば、古典なんて誰も読まなくなってしまうのです。ハードルを下げて、古典という知的財産を次々と新しい世代に継承していくという趣旨にだけでも最大限の賞賛を送りたいと思います。

 

そして、今回と次回で取り上げる、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキーの研究で名高い亀山郁夫氏による翻訳なので安心感があります。

 私は大学生の頃に新潮文庫版を読んだのですが、原卓也氏の翻訳は重厚感があるものの、やはり少々分かりにくく、読み通すにはかなりの時間がかかりました。

一方、光文社文庫版は、あたかも現代小説を読むかのごとく、スルスルと読み進めることができます。

 

『きみらの一家って、女好きが炎症を起こすぐらい深刻だっていうのにさ。』

 

『おれからすりゃ、金なんてたんなるアクセサリーだし、魂の湯気だし、小道具にすぎないのさ。』

 

現代的です。

『魂の湯気』という表現は気になりますね。

そして、

 

『人間にとって、父母の家ですごしたごく幼い時代の思い出にまさる尊いものはほかにないからで、愛と信頼がかろうじてあるだけの貧しい家庭でも、ほとんどの場合がつねにそうなのである。』

 

いかがですか?なんか面白そうだなって思いませんか?

 

(つづく)

近藤慎太郎 講演:40歳の胃がん、35歳の大腸がん

きたる1月26日19時より、東京ミッドタウンにて講演を行います。
本ブログにもある、がんにまつわる様々な誤解をを解き明かしながら“治る”がんである胃がん、大腸がんについて分かりやすく解説します。
定員80名ですので、興味のある方はご予約のうえお越しください(^^)

www.d-laboweb.jp

『カラマーゾフの兄弟』 ドストエフスキー その1 (書評・近藤慎太郎)

古典文学と聞くとみなさんはどんな印象を持っていますか?

 

難解。

訳が古臭い。

段落の区切りが少ない上に、字が小さくて読みづらい。

 

といったところではないでしょうか?

少なくとも、私はそう思っています。

 

古典、その中でも特に哲学的な作品というのは一部の知識階級の「知的遊戯」としての側面も持っていたようなので、意図的に難解に書かれている部分もあるでしょう。

おまけに作品が書かれた当時の社会情勢や常識、あるいは聖書についての一般的な素養を要求するものも多々あり、私をふくめて一般的な日本人が十全に理解するというのは、なかなかハードルが高いことだと思います。

 

さらに、書籍に求められている役割というのも変容していきました。

 

やることが多くて忙しい現代人にとって、読書というのはしばし現実逃避をして、カタルシスを得るための娯楽という側面が大きいのです。しかも音楽とか映画、ゲームなど、その他の競合するコンテンツがひしめきあう中での選択肢の一つに過ぎません。

 

「生とは?」

「死とは?」

「私たちはいかに生きるべきか?」

 

そんな重いテーマについて思索を深めるために読書をするわけではないのです。

 

日本人というのは世界でも有数の活字好きだと思いますが(欧米の大きな都市であっても、本屋の少なさ、小ささには驚きます)、そんな日本人であっても、難解な文章をウンウン唸りながら読み進めるなんて、ごく一部のよっぽどの本好きの方に限られるでしょう。

 

しかし。

以上を踏まえた上でもなお、時間の試練を経て生き残ってきた古典を読まないということは、極めてもったいないことだと思います。

古典が古典たりうるのは、そこにそれだけの要素があるからです。

現代の書籍と違って、古典はごくごく一握りの選ばれた人間が、思索と推敲を重ねに重ねて作り上げたものなのです。

そんな先人たちのまさに知的財産と言うべきものを、やすやすと放棄してしまっていいのでしょうか?

 

私たちは目に見える形の財産に限っては、喜んで継承しています。たとえば建造物、自然、文化、科学などといったものです。

その一方で、先にあげたテーマのように、精神的なもの、抽象的なものは驚くほど世代間で共有されていません。

「たとえば哲学や心理学といったものは過去を継承して発展しているのではないか?」

という反論もあるかもしれません。しかし、それはあくまでそれを専門にしている人たちの中で継承されているだけであって、大多数の一般人の生活に落とし込まれているわけではありません。

 

もちろん精神的・抽象的なものは時代によっても個人によってもふさわしい形が違うから、そもそも継承しにくいという側面はあります。それでもなお、やっぱり人が人として生きるうえで、立場の違いを超えて変わらない本質的なものもあるはずです。なぜそれにまつわる叡知というのはほとんど蓄積されていないのでしょうか。

人間は同じ場所でずーっと足踏みを続けているように思えるのです。

 

「生とは?」

「死とは?」

「私たちはいかに生きるべきか?」

そんな疑問を解消する、とまでは言いません。しかし、ちょっと先まで見通すことができるようになるヒントが、古典の中にはあると思います。

忙しさの中で自分を見失いそうになるとき、古典を読むことによって、「同じ問題意識を持っていたんだな」と思ったり、「なぜ現代とこんなに違うのか」と考えたりすることによって、優れた先人たちに今の自分の立場や価値観を一時的に相対化してもらうことは、非常に有益なことだと思います。

 

古典には優れた効用がある。それは間違いありません。

しかしここでやはり、最初に戻ってしまいます。

 

難解。

訳が古臭い。

段落の区切りが少ない上に、字が小さくて読みづらい。

 

といった問題が再浮上してきてしまうのです。

これをどうすればいいのでしょうか?

(つづく。すみません、『カラマーゾフの兄弟』までたどり着きませんでした…。) 

食道がんは、ほかの臓器にがんを合併しやすい!

1.食道がんはどうやって見つかっているのか?

 

さて、食道がんを見つけるための画像検査は何を受ければいいでしょうか?

食道のチェックに特化した検査というのはほとんどなく、以前に解説したとおり胃がん検診で胃のチェックと同時に食道のチェックをしています。つまりバリウム検査と胃カメラです。

 

 

以前から「胃がん検診をピロリ菌や胃炎に関わる採血項目で代用する」という考え方があり、一部の市区町村では導入されつつあります。

それはそれで理にかなっている部分もあるのですが、その場合は食道のチェックは全く行われないことになります。

胃がん検診が食道がん検診を兼ねている現状を考えると、やはり胃がん検診にはバリウム検査や胃カメラなどの画像検査を続けた方がいいのです。

 

胃がんと同様に食道がんも早期の場合は無症状です。報告によると、早期の食道がんの場合、56.9%の方が無症状でした。(注1)

また胸がつかえる、胸が痛いなど何らかの症状がある場合は、その85.8%がすでに進行した食道がんでした。

やはり、症状がでてからでは遅いのです。無症状の段階からの積極的なチェックが重要であることが分かります。

 

そして、食道がんを早期に発見するためには、バリウム検査よりも胃カメラの方が優れています。

もともと早期の食道がんは非常に見つけづらく、NBIなど光学的な技術にサポートしてもらってなんとか見つけているというのが現状です。「バリウムが食道をサッと流れた時に数枚レントゲンを撮る」というバリウム検査では、やはり不十分なのです。

実際に、早期の食道がん85.0%胃カメラで見つかっており、バリウム検査で見つかっているのは11.2%に過ぎません(注1)。

 

食道がんの手術は体への負担が大きいので、内視鏡で治療できるような早期がんの段階で発見する必要性が、胃がんや大腸がんよりもずっと切実です。

バリウム検査が有用ではないということでは決してありませんが、特にアルコール過飲や、タバコ、逆流性食道炎など食道がんのリスク因子がある方は、バリウム検査より胃カメラを優先した方が安全でしょう。

 

2.食道がんは、ほかの臓器にがんを合併しやすい!

 

食道がんにはもう一つ重要な注意点があります。

それは食道がんができた場合、ほかの臓器のがんが合併する可能性が非常に高いという事です。これは食道がんがほかの臓器に転移しているという事ではなく、全く別のがんが生じるという事です。

 

報告によると、全食道がんの18.9%に重複がんを認め、特に1.4%は3つ以上のがんが重複していたとのことです!(注1)

驚くべき数字だと思います。重複がんの種類として頻度の高いものは、胃がん(36.3%)、咽頭がん(13.4%)、大腸がん(12.1%)、肺がん(6.5%)などが報告されています。

 

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なぜ合併しやすいのかは明らかではありませんが、食道がんとそのほかの臓器のがんが、タバコとアルコールという影響力の強いリスク因子を共通点として持っているからだと思います。

つまり、タバコやアルコールが一方では食道がんを発症させ、また一方ではそのほかの臓器のがんを発症させ、結果として両者が合併することが多い、ということなのだと思います。

 

ほかの臓器のがんは食道がんと同時にできているかもしれませんし、将来的にできるのかもしれません。まんがいち食道がんと診断された場合は、そのほかの臓器にもがんがないかどうかを慎重にチェックし続ける必要があるのです。

 

さて、食道がんは今回でおしまいで、次回からは大腸がんを解説いたします。次回は2017年1月19日に掲載予定です。

みなさま、よいお年を!

 

(文・イラスト 近藤慎太郎)

 

(注1)Comprehensive Registry of Esophageal Cancer in Japan 1998-1999