古典は優れた効用がある知的財産であって、捨て去るのはもったいない。
しかし、
難解。
訳が古臭い。
段落の区切りが少ない上に、字が小さくて読みづらい。
といった問題があります。
どうすればいいのでしょうか?
そのような状況の中で、2006年から光文社の『古典新訳文庫』シリーズが刊行されています。これは、東西の古典を「いま、息をしている言葉で」新たに翻訳して、現代に再生させようという試みです。
そのアイディア自体は目新しいことではないと思います。古典の牙城、岩波文庫は別にして考えるとしても、各出版社が古典の新訳本を散発的に出しているからです。
ただしこのシリーズはダントツで息が長い。その点で他の出版社の試みと完全に一線を画しています。かれこれ10年以上続いており、ドストエフスキー、シェイクスピア、ニーチェ、マルクスなどメジャーなものから様々なマイナーなものまで、すでに200タイトル以上がコンスタントに刊行され続けています。
これだけ続いているということは、出版社の努力ももちろんでしょうが、実際にこのシリーズが読者に広く支持されていて、商業的にも成功しているのでしょう。特に、後ほど取り上げる『カラマーゾフの兄弟』は、全5巻合わせて100万部以上販売されているとのことです。古典でそれだけ売れるというのは、異例のことなのではないでしょうか。
そしてここで特に言及しておきたいのは、装丁の素晴らしさです。
すべてのイラストを美術家の望月通陽氏が手がけています。
これが、安易なカテゴライズを許さない、きわめて独創的なイラストなのです。
大胆かつ繊細、そして摩訶不思議な曲線で描かれた、
人間のような、
妖精のような、
エクトプラズムのような、
クリオネのような、
機械のような、
よくわからないもの。
有機物なのか無機物なのか
幼いのか老いているのか
過去なのか未来なのかすらわかりません。
つかみどころのないスケール感が古典のイラストとしてとても合っていると思います。
さて、本シリーズは読みやすさを第一に掲げているため、ある程度思い切った翻訳、意訳なども多いようで、一部のタイトルには賛否両論あるようです。
確かに作品の雰囲気からあまりにも掛け離れてしまうのは問題ですが、このまま放っておけば、古典なんて誰も読まなくなってしまうのです。ハードルを下げて、古典という知的財産を次々と新しい世代に継承していくという趣旨にだけでも最大限の賞賛を送りたいと思います。
そして、今回と次回で取り上げる、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキーの研究で名高い亀山郁夫氏による翻訳なので安心感があります。
私は大学生の頃に新潮文庫版を読んだのですが、原卓也氏の翻訳は重厚感があるものの、やはり少々分かりにくく、読み通すにはかなりの時間がかかりました。
一方、光文社文庫版は、あたかも現代小説を読むかのごとく、スルスルと読み進めることができます。
『きみらの一家って、女好きが炎症を起こすぐらい深刻だっていうのにさ。』
『おれからすりゃ、金なんてたんなるアクセサリーだし、魂の湯気だし、小道具にすぎないのさ。』
現代的です。
『魂の湯気』という表現は気になりますね。
そして、
『人間にとって、父母の家ですごしたごく幼い時代の思い出にまさる尊いものはほかにないからで、愛と信頼がかろうじてあるだけの貧しい家庭でも、ほとんどの場合がつねにそうなのである。』
いかがですか?なんか面白そうだなって思いませんか?
(つづく)